2012年7月5日木曜日

「メランコリア」追記。

トリアー監督「メランコリア」鑑賞後、劇場でプログラムを購入して、読んだ。
そこには ”トリアー監督は鬱病を患っていて…云々、鬱状態で考える究極の解決策” 等々なお話が書かれていたが、普通に「地球が消えてしまえばいい」と思っている私は頭がおかしいのだろうか?幼少の頃からなんだけど、これ。そう思うのが普通だと思っている自分には当たり前の事じゃないの?…と。

※厳密には、人間だけが消えてしまえばいい、と真顔で思っている。

特に現世に執着も無いし、平和になるのはそれだと思うなあ。

最近ちょっと嬉しかったことは、階下に住むチビくん(※画像が、大きいけど名前は“チビ”くん)の飼い主さんが「貴方と会わない日はよくニャーニャー鳴いてるよ。最近会わないと寂しいみたいだよ!」と言われたこと。動物は裏切らない、人間と違って自分のエゴだけを押し付けない。自分の欲求だけを自分勝手にアピールしない。計算高くない。思ったまま感じたままを表現する。誰にどう思われてるか、とかあまり考えない(動物同士でもいろいろあるんだろうけど 笑)。
楽だ、本当に。

私自身、あまり人にどう思われるだろうとか考えないほうなので、自分が行動したことに対して人がドン引きしたりしても、仕方がないか、と思うだけ。その人にはキャパシティが無かったのだ、と思うだけ。どんなに好きでも、無理なものは無理だと思っているし。ただ、本心を誤摩化して生きるような人とは今後接点は持てないな。疲れるし。察することは相変わらず苦手だし。言えばいいじゃない、接すればいいじゃない、としか思わない。会って大切な話をしない人とは距離をおく。面識が出来ればほぼもう大切な人、なにか理由があるから会ってる訳だし。それを自分の弱さやかっこわるさを隠すためにばつが悪いから誤摩化してしまうことに、こちらは気付いてるけど、もうあえて言わないだけです。

人がどういう洋服を着ている、どういう靴を履いている、何何のブランドバッグを持っている、どういう彼氏がいる、どういう仕事をしている、どこどこの大学を出ている、年収がいくらある、どんな車を持っている、どんな○○を持っている、どんな○○を持っている、どんな○○を持っている、、、私にはどうでもいい。その人がどういう事を真剣に考え、どういうことを成し遂げたいと真剣に思っているか、真剣に行動しているか、自分の内部から湧き出る感情にどこまで素直になれているのか…ただそれだけにしか興味が無い。他には興味は無い。そういう物に囲まれていなければ、不安だ…という人はそういう自分なのだということを認め、開き直ってその世界でその世界の人と生きていけばいいと思う。こちらは何の保証もない、リスクだらけの世界。覚悟が無ければ腹をくくらなければ息が出来ない、多分君には無理だ。












こないだメモったことを残しておこう。

全ては「空、無、幻、脳の勝手な判断と解釈」であるということ。でもそれなのに自然と自分の中から起こる感情はどこからやってくるのかな?自我・意思ってなんだろう?

好きな人、友人、尊敬出来る人との間で、自分にとってうれしい事があると、それが「有限」であることを忘れて勝手に期待してしまうアホな学習能力の低い人間だ。

それが消えてしまいそうになると、または消え去ってしまってから「悲しい」という感情が生まれる瞬間がそのうちやって来て、「ああ、忘れてた。分かってたのに相手の本心を見ずに近寄ってしまった」と毎回思う。

私は他人から好きになって貰えるような人間ではない。そういう有難い状況が発生した時も「それが有限である、変化する、消滅することである」ということを忘れてはいけない。 忘れると脳の勝手な解釈で「悲しい、切ない」といった感情にいずれ支配されてしまうだけだ。

「悲しい」なんてなにを偉そうなことを言ってるんだ?君は。そんなことが言える立場では無いのを自覚しなさい。

ただ淡々と日々を送って死が己を迎える用意が出来るまで、他人に期待などすることなく最低限の生命活動を維持すればよいだけのことだ。

 できる限り目立たず息を潜め、誰にも本来の状態物体としての意識としての「無」に戻っても気づかれぬように配慮しなさい。もとの「無」という状態に戻るだけだ。心配することではない。

0 件のコメント:

コメントを投稿