2012年1月15日日曜日

シュタイナーコレクション2 内面への旅〔メモその1〕

シュタイナーコレクション2『内面への旅』 (ルドルフ・シュタイナー)
読んでる最中。
メモ的に。

要はキリスト教的考えで言うなれば『悪魔』にたぶらかされて人間はこうなってしまってるんだよ~っていうことを延々とシュタイナーさんは言わんとしているのだろうか?という解釈で読んでいるんだけど。 。。
なんともかんともむじゅかしー!!

〔第三講〕より


 本来の人間の視力は、眼を通って外へ向かい、事物にまで達するはずではなかったのです。視力は本来、眼そのものまでに達すればよかったのです。もともと神々の意図によれば、どんな視力活動も、眼を直接意識するのでなければならなかったのです。ですから、本来、人間は外の事物を見るべきだったのではなく、自分の眼を感じ取るべきだったのです。
 人は、眼そのものの中で生じる活動を意識すべきだったのに、現在の人間は、見る行為を意識しないで、眼の向こうから働きかけてくる外的な対象を意識するようになりました。しかし人間は、対象を見るようになるはるか以前に、すでに見ることそのことに集中すべきだったのです。つまり眼の中で、自分自身を意識すべきだったのです。眼の活動そのものを感じ取る必要があったのです。
 現在の人間は、眼そのものの働きを感じ取ることが出来ません。手の働きを感じ取ることならできます。少なくとも、手でものを掴むのか、手を自由に動かすだけなのか、区別できます。手そのものの活動を意識できます。これが現在の人間の状態です。とはいえ、はじめからそのように意図されていたのではなく、自分の眼や耳を、つまりなんらかの感覚器官を働かせるときは、そこに支配する意志を知覚するように、意志の中を遊泳できるように意図されていました。このことは、眼がものに触れる、そのやり方からも知ることができます。
 手がものに触れると、眼がものに触れるのとは、まったく同じ在り方であるはずだったのです。何かを手で掴むと、その何かが硬いか柔らかいか、すぐに感じ取れます。そのように眼も手と同じ在り方をするはずでした。もしもエーテル体が正しく肉体の中に組み込まれていたならば、眼だけを感じ取り、いわば直接的に、支配する意志を眼の中に感じ取ったことでしょう。

 しかし、 現在のエーテル体は、肉体の中に正しい仕方で組み込まれていません。これは、人間における無秩序の一例にすぎません。そもそも人間本性における肉体、エーテル体とアストラル体、自我との間のどんな結びつきも、すべてが無秩序の状態にあるのです。
地球紀の進化の出発点で、ルツィフェルの影響が生じなかったなら、人間本性の四つの部分の相互の結びつきは、別のあり方をしていたでしょう。今日明らかにしたいのは、ルツィフェルによって人間本性の四つの部分の結びつきに生じた無秩序が、まったく特別の事情を生じさせたということです。
 このことを、次のような仕方で明らかにしようと思います。まず問題を図式化してみると、こうなります。

 ↓↓↓アーリマン↓↓↓
   ◎肉体 ー エーテル体
  1.エーテル体に対する肉体の優位、すなわち感覚世界の出現
   ◎エーテル体 - アストラル体
  2.アストラル体に対するエーテル体の優位、すなわち身体的全体感情の体験
    =================================
   ◎アストラル体 - エーテル体
  3.エーテル体に対するアストラル体の優位、すなわち養分摂取の楽しみ
   ◎自我 - アストラル体
  4.アストラル体に対する自我の優位、すなわち思考、感情、意志と自我との癒着
 ↑↑↑ルツィフェル↑↑↑

(2 と 3との間の===部分でルツィフェルとアーリマンが出会う)

ルツィフェル
私たちは、思考・感情・意志と一緒になって生きていますから、こういう思いを抱いて生きていくことは、非常に困難です。この世を生きる私たちはいつでももう一人の道連れを伴っています。その道連れは己と離れがたく結びついていて、己につきまとっています。一種のドッペルゲンガー(分身)のようにです。私の隣で、その連れが考え、感じ、欲しています。しかし、私はこの道連れではありません。私は私の自我の中の私です。私は三つの袋のように、この連れをかつぎ廻っています。この袋のひとつには私の思考が、もうひとつの袋には私の感情が、第三の袋には私の意志が入っています。この「三つの袋」理論を実践する以前には、思考、感情、意志と自我との対比を考えることは困難ですが、ルツィフェルが人間に影響を及ぼす以前の、神々によって意図された本来の人間は、自分自身の観察者となるように定められていたのです。人間にとっての根源的な「誘惑」とは、ルツィフェルが人間自我と結びついたことにあります。本来、人間は、月紀に与えられたアストラル体と並んで、自我を純粋な状態で受け取るはずでした。ところが、ルツィフェルは人間の自我にこう語りかけました。


いいかい、それでは退屈してしまうよ。君たち人間は、いつもこの唯一の中心点である『私である』を持ち廻って、『私』以外のすべてをただ観察しているだけではないか。君は君のアストラル体に沈潜すればよい。そのほうがずっと気が晴れる。私は君に、アストラル体の中に沈潜することのできる力を授けよう。そうすれば君は、一方的に、君の自我だけで立ち、君の道連れ(ドッペルゲンガー)を見続けなくてもすむはずだ。ただ道連れの中に沈潜すればいいのだ。もしも君がアストラル体の中に沈潜してしまい、いわば溺れてしまうようなことになったなら、私の力で君を助けてあげるから。

アーリマンルツィフェルも、どっちも悪魔じゃないか!早い話が人間をたぶらかしてたって事なの?そんなこんなで人間はいつの時代も唯一こんなに思い悩む動物になってしまったってニュアンス?教えてエライ人!)

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